(備忘)某件について

有名ジャズミュージシャンが、自治体主催の教育プログラムのコンサートで生徒である中学生に手を挙げてしまったという話。

いやしくも末席ながら、音楽や教育・指導にかかわる、かかわったことのある人間として、備忘として、考えの整理のためにここに書き残しておく。

個人的な結論を先に書くと、大人が子供に対して暴力を振るったことが、被害者の人格に良い影響を及ぼすなんてことはほぼ皆無と言っていいと思っている。ましてそれが公共の場であったのなら、内外に対する影響は大きいわけで、今後こういうことが繰り返されてはいけないと強く思う。

ただ、本件はゴシップとして魅力的すぎるせいか、表面的、平面的な物言いがあまりにも多いと感じたので、数点、これを問題として考えるときに考慮するべき要素を挙げてみたい。

 

まず、このプログラムは少なくとも「音楽」と「教育」の二つを柱に成立しているものだと考えられる。そして、今回の出来事はこの二つの柱について、それぞれ「個人」「集団(社会)」の二つの視点で考えるべきだと考える。

 

1.「個人」にフォーカスした「音楽」の場として起こったこと

まず、この話の概要をSNSを通じて知って僕が感じた第一印象は「その生徒、やるな!素晴らしいな!」ということだった。

今まで僕が教えた生徒の中だけでも、才能豊かな生徒、なかなか実力を発揮できない生徒、いろいろな人と出会ってきたが、技術や知識、ノウハウはある程度教えることができても、それを使って何をするのか、何をしたいのか、という動機の部分を与えたり(そんなことして意味あるのか?)、生徒の奥に眠っている表現衝動に火をつけることが一番難しい。ひょっとしたらそんなことは不可能なのではないかといつも感じている。

そんな中、話題の彼は、中学生の若さにして、その場のルールや(「様式」という意味での)マナーを逸脱してしまうリスクを冒してまで、その場で自分のソロを演奏したい!という強い動機をすでに持っていた。

我々大人が大人同士の場でマナーを逸脱するよりも、子供が大人がいる場でマナーを逸脱することは、主観的に大きなリスクを伴う、中学生といえば物心もついてきて、失敗した時の照れや恥というものを感じるようになってくる年齢だし(実際、僕が今まで見てきた生徒で、大編成バンド・オーケストラの中でソロの機会があっても、積極的にチャレンジするより、むしろ避けようとする生徒のほうが多い)、何より大人の作ったマナーを逸脱した時には、時には叱られたり罰を受けたりすることもある(まさしく今回のように!)。もちろん大舞台での興奮や、ドラムというその気になればバンド全体を音響的に支配できる楽器を操っていたことによる陶酔などに助けられた部分もあるだろうが、それでも前述したようなリスクよりも大きな動機が彼の中にあったからこそ、こういう行動につながったのだから、しかも流布している動画を見る限り、ただ単に衝動のままに叩いているのではなく、ジャズドラムの様式として一定以上の水準を満たした演奏でそれを表現しているのだから、単純に素晴らしい才能といって差し支えないと思うし、音楽教育の観点から見れば、守りこそすれつぶすべきものではないと思う。

 

2.「集団」にフォーカスした「音楽」の場として起こったこと

しかし、報道等を見る限り、残念ながら彼の中学生離れした表現は、このプログラムの根幹である、大編成のバンドによるコンサートという場にはフィットせず、結果的には彼の独善的な演奏が全体の調和を乱してしまった、という結果になったようである。

(ただ、これは僕の希望的観測を多分に含むが、一部で彼が周囲の奏者を煽るような仕草を見せた、という話もあるので、彼は彼なりに独善ではなく、自分の力で全体の演奏をよりよくしたいという思いがあったのではないかと想像する。不幸だったのは、彼の周囲を動かすスキルと、ほかのプレイヤーのそれに応じるリテラシーがかみ合わなかったことなのではないか。)

 

3.「個人」にフォーカスした「教育」の場として起こったこと

上記のような現象を引き起こした「彼」が、今回平手打ちを受けたことで、それ以外の方法によって制止された時と比べて、何か多くのことをを学ぶことができたか?というとそれは否であると確信する。これは僕の個人の信条、あるいは主観的な経験に基づいた話になるが、暴力で何かを制止(あるいは強要)された際、行動としてそれを止める(行う)という表面的な部分を矯正することはできても、その根拠・理由を知ろうとし、次の機会には自分の意志で止める(行う)ようにしよう、とはむしろ考えなくなる(暴力に対するネガティブイメージと関連付けられるため)のではないか。

 

4.「集団」にフォーカスした「教育」の場として起こったこと

しかしながら、限られた時間、限られたリソース(一説によると、ドラムやピアノのような楽器は、交代しながらソロ演奏をする段取りになっていたそうだ。ジャムセッションなどでもしばしば行われる手法なので、たぶんそうだったんだろうと思う)を彼が彼に割り与えられた以上に消費してしまい、ほかの生徒たちの演奏(すなわち経験すなわちこの場で受けることのできる最大の「教育」)の機会を奪ってしまっていたことは間違いなく、プログラムを運営する大人に、彼の演奏をなんとかやめさせる責任があったことは確かだと思う。

もし、極度に興奮した彼を止めるために、それが可能な最大限穏当な方法をとった結果として、暴力に頼らざるを得なかった、というのであれば、それは能力の問題であって、意思や教育方法の問題とは切り離して考えるべきと判断する。

 

まとめ

3と4から、彼に振るわれた暴力が、ほかの生徒の権利を守るために行使されたものなのだとしたら、それはそうせざるを得なかった、大人側の能力不足や極度に興奮した彼の状況から起こってしまった不幸な事象だと考える。

しかし、彼に何かを「わからせる」ために行ったことなのだとしたら、それは手法としてworseであり、一人の大人として愚かな行動だったと考える。

 

しかし、今回の件でより僕が皆さんの心に留めていただきたいのは1と2の部分で示したことである。

公開されているコンセプトや、実際の演奏を見る限り、自治体によって行われているこのプログラムは素晴らしいと思う。一人の音楽家として、音楽がこのように大きく社会に貢献する場に使われていることを誇りに思うし、これを実現し、運営している関係者の努力や労力には感謝と敬意をいくらはらっても足りないと思う。

そのプログラムについて、渦中の彼のお父様が「これがきっかけでこのプログラムがなくなるようなことがないようにしてほしい」と述べられている。これは僕もまったく同じ考えである(このような不幸な出来事が繰り返されないように改善されるべきではあるが)。

しかし、それよりもなお価値があり守られるべきなのは、とりわけ大きな存在感を見せたドラマーの彼をはじめとする、参加した生徒たちの(広義の)才能だと思う。これは、単なる一般論のきれいごとではなく、流布している動画等からでも十分感じ取ることのできる、実態のあるものとして、そう考えている。

そういった意味では、渦中の有名ジャズミュージシャン氏は「今回のことを騒ぎにすることで、自分よりも生徒の彼をより傷つけている」と発言されているが、これはうがった見方をすれば、保身やマスコミに対するいら立ちから出た発言ともとれるが、それでもなお、傾聴の価値がある真実を、少なからず含んでいるように思われる。

 

繰り返しになるが、今回の件は良識ある人にとっては、教育現場での暴力の是非、というところが焦点になっているのだと思う。それはそれでまっとうな考えだ。

しかし僕個人としては、この件がゴシップとして消費される過程で、ドラマーの彼をはじめとする参加した生徒たちが示した才能の輝きが軽視され、ゴシップの小道具として矮小化されることのほうが残念でならない。

これを読まれた方は、若い人が持っているプリミティブな表現衝動や才能について、それはとても貴重で尊いものなのだということを少しだけ、考えていただければ幸いである。